Tadayoshi YUKI
essay 2020.4.20
《思うこと》
これは 2020年の4月に予定されていた第106回記光風会展が中止となり、その時に執筆したエッセイである。
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春の光風会展が中止になった。75年ぶりのことだそうである。太平洋戦争以来で、最早正に戦争状態だ。
僕は十年前から光風会展に出品していて、今年は130号の大作を描くように指名を頂いていたので、特に張り切って準備をしていた。展覧会は一年の中の重要な作品発表や研究の機会で、今では人生でかけがえのないものになっていた。それだけでなく普段から美術館に絵を見に行くのも好きなので、それらがすっかり生活の一部になっていたから、コロナ禍で展覧会が中止になったことも、絵を見に行けなくなったことも、とても辛かった。 展覧会は軒並みなくなり、絵描きも、画商や画廊も、美術館、展示に携わる全ての人たち、愛好家、皆がそれぞれの領分で辛いと思う。
近所の郵便局で感染者が出て閉鎖され、いよいよ病を身近に感じている。ぼくも近くに住む別居中の母とはずっと接触を避けている。自分のように、外に出ないで仕事が出来たりする者は、外に出ずにすむ時は家の中でじっと忍んで生活することで、少しでも世のため人のためになりたいと思う。
小説家の福永武彦氏は、結核のサナトリウムでの療養中に、一冊の画集や詩集、ラジオのレシーヴァから流れる音楽に慰められたとエッセイで書いている。日々、死の影の下にいながら、病床でどんな気持ちだっただろうかと、今こそ想像してみる。
「芸術は確かに一つの慰めである。それも人を生へと導く力強い伴侶である。 …芸術作品の中に、直接私たちを揺り動かす魂の羽ばたきを感じる。それは生きることの愉しさを私たちにしらせて、魂の領域をひろげ、やわらげ、高めるものである。…あまりに多忙な日常を送る人は、その魂が乾からびて、遂には夢見る力さえも失ってしまうかもしれない。芸術はその時、せかせかした彼の足を立ち止まらせ、…彼の魂にひそかな呟きを聞かせるだろう。…それを聞くことによって、あなたは一瞬、時間のない世界の中へと連れ込まれる。その時あなたは、好むと好まないとに拘らず、芸術によって慰められているのである。」
これは福永氏の『芸術の慰め』の一説である。「魂」などの言葉は象徴的だが、決してスピリチュアルなものではなく、現実的な言葉なのだと思う。彼はこのエッセイの中で、「呟き」、「呼び声」など、それを繰り返し声に喩えていて、何かとの対話がそんな時にどれほど欠かせないものなのか、と思わされる。
コロナウイルスは、命の危険とともに、人とのコミュニケーションを喪失させて関係を奪い去る恐怖がある。無症状の感染は信頼を揺るがして疑心暗鬼を生むし、そもそも感染のリスクは誰にも例外はない。だからこそ、今は自分の微小さを見つめなおしながら、静かに内省する時でもあるのかもしれない。そんな独りぼっちの時、彼のように芸術に触れたいと思うのは、作品そのものの力のみならず、各々が自由な孤独の中で、自身の生を拡充させたい、そして誰かと繋がりたいと望む、作品を介しての、対話への根源的な渇望に根差しているのではないかと思うのである。
ぼくが絵を見るのが好きなのは、作品を楽しみたいだけでなく、福永氏のいうように作品を通して内省と対話ができるからだと感じているが、美術館には行けないけれど、アトリエには大好きな物故作家の素晴らしい小品などがあるので、それらをじっくり眺めて、時々色々な対話をしてみる。佳い作品には品格があり、いつまでも飽きることがなく、常に新しい発見をもたらしてくれる。その体験は間違いなく心を豊かにしてくれる。鑑賞者として作品を味わうだけでなく、自分も絵を描くから、他者の絵画を見て創作のプロセスを想像して、筆跡を目でなぞってみたりして追体験し、気持ちを重ね、時には模写をしてみたりもする。そういう密かな語らいも愉しいものだと思う。
カミーユ・コローが《スヴニール》と題した一連の作品は、イタリアやギリシャなど各地に旅をして、現実の風景を捉えつつ、アトリエでその記憶を追想しながら描いたもので、だから《想い出(souvenir)》と名付けられている。僕も自分が描きたい絵はそんな《想い出》のようなものだとずっと憧れている。手作業で描くことで否応なく反映される自分自身の夢想的なもの、現実に潜む夢のような部分が絵によってあらわせられれば、そして、それが見る人との対話につながれば、といつもどこかで願いながら描いている。いつか見知らぬ誰かと作品を介して握手が出来れば嬉しい。
今から連なるすぐそこの未来の生活への不安はどのような時も尽きないが、だからこそ心の中の翼は広げて、せめて明るく生きていきたいなと思う。
結城 唯善