essay      2021 新春  

 

 

 

 花はあきらめた。これはセザンヌのある画論の書き出しで、あとに、花はすぐ枯れるが、果物は忠実で、色褪せていくのを謝っているかのようにそこにある云々と続く。花の命は短い。僕も裏庭からとってきた山茶花を活けて写生していたら、室温でみるみる開いてきてしまい、慌てて暖房を消してドテラを着込んで震えながら描いたこともあった。だからというわけではないが、道端に自生している花々を絵にするのが好きだ。そうするのには自分なりに思うところがあるからでもあるが、「花屋の店頭を飾っているようなものも、美しいには美しいが、何だか自分と共に呼吸している花という気がしない」という日本画家の山口華楊先生の言葉の影響も大きい。「描くものと描かれるもの同じ生きもの同士である。こちらと対象の気持ちがピタッと一致して霊感のようなものを感じたとき、ひとつの絵になる要素ができる。この霊感と写生と構想とで絵になるのである」。この言葉も忘れられない。風さそふ花の行方は知らねども惜しむ心は身にとまりけり、と西行も詠んだように、移り変わる自然の様相と心の有り様を昔から人は重ねて見つめてきたのだろう。
 僕の家には華楊先生の花の絵が二枚ある。一枚はパンジーの一群を描いた本画で、もう一枚は画帖からばらしたと思われる牡丹の淡彩素描。どちらも素晴らしく気持ちのいい作品で、ある朝、窓から射した陽が牡丹の下で揺れているのを見かけたときは、清々しい爽やかな涼気が辺りに立ち込めているように錯覚して、晴れやかな心地になった。絵の花は枯れることがなく、いつまでも可憐である。
 折々に華やかで儚い美しさを持つ花は「時分の花をまことの花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり」などともいわれるように、芸事の核心にも例えられてきた。昭和の名人であった六世中村歌右衛門が終生心に刻んだという次の言葉は、芸人のみならず全ての表現する人に通じるものとして、これも胸に残っている。
 

 花と夢を忘れぬこと

                近日刊行『影とひかり 結城唯善作品集』( 株式会社adore )より

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